石原莞爾顕彰会事務局より

墓参された方々のご感想・ご意見を整理の上公開させていただいております。ノートを置いた平成13年からのものです。北海道から九州まで、小学生からご高齢の方まで老若男女、記名された方のうち約2割がこのノートに思いを綴られています。中には、遠方にも関わらず、二度以上訪れる方も相当数いらっしゃいます。石原将軍への熱い思い、永久平和への願い、この国のありようを考える、将軍の生き方に励まされた等々、記述の長短に関わらず、どれも真摯な思いが感じられるものばかりです。

【おことわり】 氏名・住所等から個人が特定できないように配慮させていただきました。できる限り原文のまま転記しましたが、ご寄付、書籍購入、その他、大意に影響ないところを割愛または簡略にした部分があります。また、内容・表現が過度な場合、語彙が読み取れない場合など、整理を控えさせていただいた箇所がありますこと、ご了承願います。当会の管理上のメモは省略。 ― 石原莞爾顕彰会事務局 ―
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2020年11月4日水曜日

萬谷和子様に聞く「石原莞爾先生ご夫妻との出会い」令和2年10月29日

このたびある方のお勧めがあり、酒田市でお茶・陶器などを商う「萬谷」の専務、萬谷和子さんにお会いしました。「萬谷」は300年の歴史をもつ由緒ある名店です。その和子さんが石原莞爾先生とその奥様にお会いしていると聞いてお訪ねしたのです。石原先生は今年が71回忌。直接お会いした方も少なくなり、居たとしてもそれを語れる方はさらに少なくこれは自然の流れです。そのようなことで是非お話を聞いてみたいと思いました。和子さんは93歳ですがお歳を感じさせない明快な語り口と記憶力、聞き手に時間を感じさせない力がありました。

2011年10月3日月曜日

『石原将軍の思い出』第2信 石巻市 眞山文子

老いぼれてしまわない内にと、思い出しながら筆を進めました。文章にしてみると簡単ですが、その時、その時にみなぎる緊張感は身体の隅々に残っております。本当に東亜聯盟運動は緊張の連続、そしてそれを経験したことの充実感は何物にも換え難いものです。そのお陰で会い見る事の出来た数々の立派な方々、そのこともまた何物にも換え難いものでした。夫々の同志の方達の想いも同じだと思っております。

昭和8年5月、国際聯盟を脱退して日本に引き揚げて来られた将軍は、間もなく8月には第四連隊長として仙台に赴任して来られました。その仙台から電車で4・50分東寄りの石巻には、当時読売新聞特派員として高木清寿氏が街の有識者達と交遊を深めておられました。その読売の新聞配達をしていた眞山(元輔-夫)は友人、知人を誘ってその高木氏から数々の教えを受けておりました。アンゴラ兎飼育の門馬氏、理髪師の亀山氏、塗師の伊藤氏、魚市場で使う竹籠製造の阿部金氏等の諸氏達。

2011年9月22日木曜日

『石原将軍の思い出』 遊佐町 歌川博男

昭和24年8月15日早朝に石原将軍はご逝去されましたが、当時5歳だった私は前夜から両親に連れられて御宅にいました。部屋いっぱいの人達の中、将軍のお顔近くでお別れをしたことをぼんやりと覚えています。これは人に聞いた話ですが、私達は将軍の家から数百m南側に住んでいましたが、ある時期、将軍にお飲みいただく山羊乳を私が一人で運んだというのです。しかし幼かった私は将軍のお姿とともにその記憶はぼんやりとしたものです。

私の生母は私が12歳の時に病で亡くなりましたが、詩や散文等を書くことが好きでした。昭22年1月(私が3歳の頃)の日記に、私に話しかける情景を「吾子」と題して散文風に綴っています。・・略・・一番好きな人は?「閣下ヨ」とはずかしそうにくびをまげる・・以下略。将軍にはなんとなく好々爺の印象を持っていましたがこれを見てうなずけます。父母はお忙しい将軍に私の命名をお願いしていました。将軍から頂いた電報に「博ハク、男ダン」とありますが、日蓮聖人ゆかりの九州博多からいただいたと聞いております。 以上

2011年9月18日日曜日

『石原将軍の思い出』 石巻市 眞山文子

私(歌川)の親せきに当たる眞山文子様(石巻市在住、93歳)から当HPブログに文章を寄せていただきました。眞山様は早くから東亜連盟運動に熱心に参加され、連盟解散後も夫と共に石巻事務所を引継ぎ活動を続けられました。実姉の故藤岡克枝様(昭56年死去)は西山に静養中の石原将軍に看護婦として、昭和21年から逝去される24年8月15日迄、付添われています。 9/16
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多分、皆様は厳しい将軍を想像なさることでしょう。人との約束、為すべき事には大変厳しい将軍ですが、芯はお心優しいお方と私はそう信じています。昭和20年頃だったでしょうか、「繆斌会談」などのご用でたびたび上京されることがあり、小泉先生や小挽町の歌川夫妻とご一緒によく上野駅までお見送りに行きました。改札口でお別れして駅構内に消える閣下のお姿は今でも瞼の底にはっきり残っています。黒いソフト(中折帽)に一寸手をかけられて、それが合図のように奥に消えてゆかれた。とてもシャルマン㊟-文末 なお方でした。