石原莞爾顕彰会事務局より

墓参された方々のご感想・ご意見を整理の上公開させていただいております。ノートを置いた平成13年からのものです。北海道から九州まで、小学生からご高齢の方まで老若男女、記名された方のうち約2割がこのノートに思いを綴られています。中には、遠方にも関わらず、二度以上訪れる方も相当数いらっしゃいます。石原将軍への熱い思い、永久平和への願い、この国のありようを考える、将軍の生き方に励まされた等々、記述の長短に関わらず、どれも真摯な思いが感じられるものばかりです。

【おことわり】 氏名・住所等から個人が特定できないように配慮させていただきました。できる限り原文のまま転記しましたが、ご寄付、書籍購入、その他、大意に影響ないところを割愛または簡略にした部分があります。また、内容・表現が過度な場合、語彙が読み取れない場合など、整理を控えさせていただいた箇所がありますこと、ご了承願います。当会の管理上のメモは省略。 ― 石原莞爾顕彰会事務局 ―

2011年10月27日木曜日

石原莞爾ドキュメンタリー 予告編

3分の予告編がプロダクションのサイトで公開されています。

東條英機との対立を経て、特に、陸軍中枢から退いて以降がどのように描かれるのか、興味津々です。確か映画は90分ものなので、おそらくインタビューも使われない部分が多々出てくるのだと思いますが、できれば、編集前の全インタビューを見てみたいものです。映像の質が高くて素晴らしいですね。

2011年10月24日月曜日

ジャーナリスト佐野眞一氏一行の取材

10月22日(土)、将軍のご本をお書きになっている鶴岡市の阿部博行氏の仲立ちで、ジャーナリストの佐野眞一氏以下、小学館週刊ポスト編集部員、フリーランス記者の以上4名が来訪。こちらは将軍にお会いしている当会の菅原会長と事務の歌川が応対した。石原将軍について佐野氏の筆により週刊ポストに掲載、以後単行本にという計画であり、現地取材を行い、関係者できれば将軍に直に会っている人の話を聞きたいということであった。西山農場母屋があった場所を確認し、旧墓所→新墓所→日輪講堂、昼食をはさんで西浜公民館にて聞きとり取材、14時には終了した。以後、鶴岡市在住の石原平和思想研究会鶴岡支部の阿部源一氏(将軍にお会いしている)に聞き取りを行い、鶴岡市郷土資料館にて将軍の資料を当たりたい予定である。佐野氏によると終戦後から西山で逝去される迄の間を中心に書きたいとのことであった。

2011年10月16日日曜日

山形県酒田市 女性

先月、旅順・大連を旅行してきました。元関東軍司令部も訪れました。その辺色々な所で旧日本軍の行動、特に〝ざんぎゃく〟の様子を取り上げ写真を掲げてあり心痛みました。石原将軍の写真も拝見しました。郷土の方なのにこの方を名前だけしか知らなかった事を恥ずかしく思いました。中国の人々はこんなに日本を憎んでいたのかと、かすかに反感さえ覚えました。日本に帰ったら石原将軍の思想、成されたお仕事を研究してみなければ・・・と思い、ここを訪れました。 
注:書籍購入していただきました。

2011年10月12日水曜日

大分県津久見市 男性

墓参に参りました。学生時代より一度は訪れたく思っていましたが、念願が叶いました。今日は庄内にて石原将軍、大川博士の足跡を辿る為に来訪いたしました。勉強して帰ります。

2011年10月11日火曜日

山形県遊佐町 女性

初めて来ました。とても近い所に住んでいますが、こういう所がある事を知りませんでした。びっくりしています。とてもきれいにしてますね。ありがとうございました。

山形県酒田市 女性

いつきてもきれいな墓地で驚いています。管理の方々お疲れ様です。これからもよろしくお願い申し上げます。私は仲條立一さんの親せきに当たります。祖母も同志の墓に入らせて頂いております。
ありがとうございます。
 注:故仲條立一様は当墓所設置に当たり尽力された同志の方々のお一人です。

2011年10月10日月曜日

東京都(酒田市出身) 男性

私も東京の大学に通う一年生です。酒田市出身ということで酒田、庄内の歴史について以前から興味があり、今回訪問させていただきました。この庄内の地には歴史的名所が多くあるのですが、残念ながら市民がそれに気付いていないこともあり、あまり注目されていません。この石原莞爾将軍の墓についても言えます。このような重要かつ後世に残していかねばならない酒田という歴史都市を将来、観光の町として復興させたいと思っています。今回はここ石原将軍の墓地に来ることができ本当に良かったです。歴史の重みを感じました。本当にありがとうございました。

2011年10月3日月曜日

『石原将軍の思い出』第2信 石巻市 眞山文子

老いぼれてしまわない内にと、思い出しながら筆を進めました。文章にしてみると簡単ですが、その時、その時にみなぎる緊張感は身体の隅々に残っております。本当に東亜聯盟運動は緊張の連続、そしてそれを経験したことの充実感は何物にも換え難いものです。そのお陰で会い見る事の出来た数々の立派な方々、そのこともまた何物にも換え難いものでした。夫々の同志の方達の想いも同じだと思っております。

昭和8年5月、国際聯盟を脱退して日本に引き揚げて来られた将軍は、間もなく8月には第四連隊長として仙台に赴任して来られました。その仙台から電車で4・50分東寄りの石巻には、当時読売新聞特派員として高木清寿氏が街の有識者達と交遊を深めておられました。その読売の新聞配達をしていた眞山(元輔-夫)は友人、知人を誘ってその高木氏から数々の教えを受けておりました。アンゴラ兎飼育の門馬氏、理髪師の亀山氏、塗師の伊藤氏、魚市場で使う竹籠製造の阿部金氏等の諸氏達。