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多分、皆様は厳しい将軍を想像なさることでしょう。人との約束、為すべき事には大変厳しい将軍ですが、芯はお心優しいお方と私はそう信じています。昭和20年頃だったでしょうか、「繆斌会談」などのご用でたびたび上京されることがあり、小泉先生や小挽町の歌川夫妻とご一緒によく上野駅までお見送りに行きました。改札口でお別れして駅構内に消える閣下のお姿は今でも瞼の底にはっきり残っています。黒いソフト(中折帽)に一寸手をかけられて、それが合図のように奥に消えてゆかれた。とてもシャルマン㊟-文末 なお方でした。
初めて私が石原莞爾将軍にお会いしたのは、高校を出て5年目(昭15)のお正月のことでした。日蓮宗の指導者田中智學先生(昭14死去)を失った若者たちは、当時京都の第十六師団長だった将軍のお話を伺いたいと申し出て、京都千本十二坊の国柱会事務所を会場にして、小泉菊枝先生と共に私も出席させて頂いたのでした。将軍は、大正七年に陸大を出た次の年、結婚と同時期に田中先生の教えを受けられ国柱会の信行員になり信仰を深められました。
昭和6年9月の満州事変の後、「五族協和」の満州国は理想的な国家を目指しましたが、昭和7年10月、スイスで開かれた国際連盟会議に松岡全権と共に赴かれ国際連盟を脱退して帰国されたのは昭和8年5月でした。最近のTVドラマで、希望に燃えて渡満した青年が「何が理想郷だ!! 」と拳を振って嘆く場面に、ふと将軍を想いました。しかし将軍はその時、自分の思いとは逆の方向に向かう現実を見て諦めたりはなさいませんでした。さらに望みを大にして「世界平和」への歩みを強くされたのです。
「東亜聯盟」の旗揚げはまさに満州国だけに留まらず大きく発展しようとしていました。名古屋の私達の勉強会もこぞって参加したのは昭和16年3月のことでした。やがて各地に支部が生まれ、講習会もたびたび催されるようになりました。京都・黒谷のお寺で開催の時、廊下でお見かけした将軍に私は思わず「近く父のもとに戻り、東北に参ることになりました」と声をかけてしまいました。将軍はすかさず「では、東北でまたお会いしましょう」と優しくおっしゃいました。心つかずに出た私の言葉に将軍はきちんと返して下さいました。私のその時の気持ちは、会の先生や仲間と離れる寂しさを、将軍はいち早く受け止め慰めて下さったのでした。
私の父は福島県磐城の城下、棚倉町で小学4年までの義務教育を終えると、東京の商家に丁稚にやられましたが、その後独学で努力して医師免許を取得しました。合併したばかりの朝鮮へ家族と共に渡り、天安という町で開業、土地の皆さんとも親しくなり、家族も増え、医業も忙しくなり、母は体調を崩しました。父は医業を廃業、勤め人となって大正11年暮れに内地に戻り、愛知県の知立という町に落ち着きました。翌大正12年9月1日関東大震災の時、母は昼食の買物に出ていました。上の姉は七輪に火を起こしていたのです。大きな揺れに驚いて夢中でバケツの水を七輪の上からかけたのは内地で育った2番目の姉でした。地震を知らない子供達を案じて駆け戻った母、仔細が分かると皆が大笑いになり、部屋の中央に固まったその時の光景、まだ5歳だった私の記憶にもはっきり残っています。
昭和18年、私たち家族は福島県棚倉町に暮らしていましたが、姉と私は仙台近郊・宮城農学寮での東亜聯盟講習会に参加するため、体調を弱めていた父の枕元に膝を寄せて「行ってまいりますが大丈夫ですか?」と言いますと、父は回らぬ舌を懸命に「よし、きた」と答えてくれました。心を残して仙台へと急ぎ、作並街道沿いの宮城農学寮で開催される宮城福島の合同講習会に参加しました。おもに農家の人々、兵隊さんもいましたが50人あまりの中に2人だけの女子でした。翌年の冬、近くにできた支部で講習会があり、今度は数人の仲間たちと歩いて会場に向かい、恐る恐る戸を開けますと、「やぁ、お嬢さん方、ここが空いていますよ、どうぞこちらへ」と言う将軍のお声がかかったのです。東北の農家の人達がどんな顔で私達を観るかということを、いち早く将軍はお分かりになり、気遣って下さったのでした。
戦争が終わった翌年の1月(昭21)、マッカーサー指令により東亜連盟は解散、間もなく有志により「酵素普及会」が立ち、その石巻事務所(宮城県)は職を失った夫の眞山と共に受け継ぐことになり、農家の人々は懸命に勉強を重ね立派な「酵素」が普及していきました。石巻事務所も忙しく来客も頻繁になりました。「仙台方面に行く時は石巻の眞山を訪ねよ、と将軍に言われました」と立ち寄って下さる方々、画家の稲垣さん、仙台の日蓮宗のお寺で自刃された大久保大佐、「かって将軍の料理人でした」と名乗られた優しい顔の青年等々。大勢の方達の優しいお心を私はいつまでも忘れられません。 以上
㊟シャルマン=フランス語、チャーミングと同意、魅力的
今、ちょうど繆斌事件の真相を究明しているから、石原莞爾将軍及び東亜連盟のことも触れました。これによって石原将軍の日中戦争不拡大及びその終結のため相当努力したこともわかり、来年、時間を作って一度鶴岡へ参ります。大阪在住 姚重華
返信削除ご返事遅れました。インターネットについて理解が浅く協力者の指摘でご連絡を試みています。
削除眞山文子は私の母方の叔母に当たります。そのすぐ上の姉の小野(旧姓)克枝は最晩年の石原先生に看護婦として付き添いました。いずれも故人です。
鶴岡市の郷土資料館には石原先生のほとんどの資料が収蔵されているのでお役に立つと思います。
石原墓所にお出での際はご連絡頂ければ喜んでご案内いたします。