石原莞爾顕彰会事務局より

墓参された方々のご感想・ご意見を整理の上公開させていただいております。ノートを置いた平成13年からのものです。北海道から九州まで、小学生からご高齢の方まで老若男女、記名された方のうち約2割がこのノートに思いを綴られています。中には、遠方にも関わらず、二度以上訪れる方も相当数いらっしゃいます。石原将軍への熱い思い、永久平和への願い、この国のありようを考える、将軍の生き方に励まされた等々、記述の長短に関わらず、どれも真摯な思いが感じられるものばかりです。

【おことわり】 氏名・住所等から個人が特定できないように配慮させていただきました。できる限り原文のまま転記しましたが、ご寄付、書籍購入、その他、大意に影響ないところを割愛または簡略にした部分があります。また、内容・表現が過度な場合、語彙が読み取れない場合など、整理を控えさせていただいた箇所がありますこと、ご了承願います。当会の管理上のメモは省略。 ― 石原莞爾顕彰会事務局 ―

2011年9月18日日曜日

『石原将軍の思い出』 石巻市 眞山文子

私(歌川)の親せきに当たる眞山文子様(石巻市在住、93歳)から当HPブログに文章を寄せていただきました。眞山様は早くから東亜連盟運動に熱心に参加され、連盟解散後も夫と共に石巻事務所を引継ぎ活動を続けられました。実姉の故藤岡克枝様(昭56年死去)は西山に静養中の石原将軍に看護婦として、昭和21年から逝去される24年8月15日迄、付添われています。 9/16
- - - - - - - - - -

多分、皆様は厳しい将軍を想像なさることでしょう。人との約束、為すべき事には大変厳しい将軍ですが、芯はお心優しいお方と私はそう信じています。昭和20年頃だったでしょうか、「繆斌会談」などのご用でたびたび上京されることがあり、小泉先生や小挽町の歌川夫妻とご一緒によく上野駅までお見送りに行きました。改札口でお別れして駅構内に消える閣下のお姿は今でも瞼の底にはっきり残っています。黒いソフト(中折帽)に一寸手をかけられて、それが合図のように奥に消えてゆかれた。とてもシャルマン㊟-文末 なお方でした。



初めて私が石原莞爾将軍にお会いしたのは、高校を出て5年目(昭15)のお正月のことでした。日蓮宗の指導者田中智學先生(昭14死去)を失った若者たちは、当時京都の第十六師団長だった将軍のお話を伺いたいと申し出て、京都千本十二坊の国柱会事務所を会場にして、小泉菊枝先生と共に私も出席させて頂いたのでした。将軍は、大正七年に陸大を出た次の年、結婚と同時期に田中先生の教えを受けられ国柱会の信行員になり信仰を深められました。

昭和6年9月の満州事変の後、「五族協和」の満州国は理想的な国家を目指しましたが、昭和7年10月、スイスで開かれた国際連盟会議に松岡全権と共に赴かれ国際連盟を脱退して帰国されたのは昭和8年5月でした。最近のTVドラマで、希望に燃えて渡満した青年が「何が理想郷だ!! 」と拳を振って嘆く場面に、ふと将軍を想いました。しかし将軍はその時、自分の思いとは逆の方向に向かう現実を見て諦めたりはなさいませんでした。さらに望みを大にして「世界平和」への歩みを強くされたのです。

「東亜聯盟」の旗揚げはまさに満州国だけに留まらず大きく発展しようとしていました。名古屋の私達の勉強会もこぞって参加したのは昭和16年3月のことでした。やがて各地に支部が生まれ、講習会もたびたび催されるようになりました。京都・黒谷のお寺で開催の時、廊下でお見かけした将軍に私は思わず「近く父のもとに戻り、東北に参ることになりました」と声をかけてしまいました。将軍はすかさず「では、東北でまたお会いしましょう」と優しくおっしゃいました。心つかずに出た私の言葉に将軍はきちんと返して下さいました。私のその時の気持ちは、会の先生や仲間と離れる寂しさを、将軍はいち早く受け止め慰めて下さったのでした。

私の父は福島県磐城の城下、棚倉町で小学4年までの義務教育を終えると、東京の商家に丁稚にやられましたが、その後独学で努力して医師免許を取得しました。合併したばかりの朝鮮へ家族と共に渡り、天安という町で開業、土地の皆さんとも親しくなり、家族も増え、医業も忙しくなり、母は体調を崩しました。父は医業を廃業、勤め人となって大正11年暮れに内地に戻り、愛知県の知立という町に落ち着きました。翌大正12年9月1日関東大震災の時、母は昼食の買物に出ていました。上の姉は七輪に火を起こしていたのです。大きな揺れに驚いて夢中でバケツの水を七輪の上からかけたのは内地で育った2番目の姉でした。地震を知らない子供達を案じて駆け戻った母、仔細が分かると皆が大笑いになり、部屋の中央に固まったその時の光景、まだ5歳だった私の記憶にもはっきり残っています。

昭和18年、私たち家族は福島県棚倉町に暮らしていましたが、姉と私は仙台近郊・宮城農学寮での東亜聯盟講習会に参加するため、体調を弱めていた父の枕元に膝を寄せて「行ってまいりますが大丈夫ですか?」と言いますと、父は回らぬ舌を懸命に「よし、きた」と答えてくれました。心を残して仙台へと急ぎ、作並街道沿いの宮城農学寮で開催される宮城福島の合同講習会に参加しました。おもに農家の人々、兵隊さんもいましたが50人あまりの中に2人だけの女子でした。翌年の冬、近くにできた支部で講習会があり、今度は数人の仲間たちと歩いて会場に向かい、恐る恐る戸を開けますと、「やぁ、お嬢さん方、ここが空いていますよ、どうぞこちらへ」と言う将軍のお声がかかったのです。東北の農家の人達がどんな顔で私達を観るかということを、いち早く将軍はお分かりになり、気遣って下さったのでした。

戦争が終わった翌年の1月(昭21)、マッカーサー指令により東亜連盟は解散、間もなく有志により「酵素普及会」が立ち、その石巻事務所(宮城県)は職を失った夫の眞山と共に受け継ぐことになり、農家の人々は懸命に勉強を重ね立派な「酵素」が普及していきました。石巻事務所も忙しく来客も頻繁になりました。「仙台方面に行く時は石巻の眞山を訪ねよ、と将軍に言われました」と立ち寄って下さる方々、画家の稲垣さん、仙台の日蓮宗のお寺で自刃された大久保大佐、「かって将軍の料理人でした」と名乗られた優しい顔の青年等々。大勢の方達の優しいお心を私はいつまでも忘れられません。  以上

㊟シャルマン=フランス語、チャーミングと同意、魅力的

0 件のコメント:

コメントを投稿