石原莞爾顕彰会事務局より
墓参された方々のご感想・ご意見を整理の上公開させていただいております。ノートを置いた平成13年からのものです。北海道から九州まで、小学生からご高齢の方まで老若男女、記名された方のうち約2割がこのノートに思いを綴られています。中には、遠方にも関わらず、二度以上訪れる方も相当数いらっしゃいます。石原将軍への熱い思い、永久平和への願い、この国のありようを考える、将軍の生き方に励まされた等々、記述の長短に関わらず、どれも真摯な思いが感じられるものばかりです。
【おことわり】 氏名・住所等から個人が特定できないように配慮させていただきました。できる限り原文のまま転記しましたが、ご寄付、書籍購入、その他、大意に影響ないところを割愛または簡略にした部分があります。また、内容・表現が過度な場合、語彙が読み取れない場合など、整理を控えさせていただいた箇所がありますこと、ご了承願います。当会の管理上のメモは省略。 ― 石原莞爾顕彰会事務局 ―
2010年12月31日金曜日
2010年12月22日水曜日
2010年12月21日火曜日
満州事変 検証論文の英訳
現在進行中の石原莞爾ドキュメンタリーの企画立案者であるブルノ・ビロリ(Bruno Birolli)氏に読んでいただくために、石原莞爾顕彰会の依頼で作業していた、『石原莞爾と満州問題 - 現代歴史学に再検討を要望する』という論文抜粋の英訳を仕上げました。元日本新党の副代表でいらっしゃった武田 邦太郎先生が1987年に書かれた論文です。
基本的に自分の専門はサイエンスであり、通訳案内士免許等は取得はしてはいるものの、歴史・政治関係は専門外の話で、歴史関係で力を入れてやっているのは、地元の歴史関係のみです。具体的には、石原莞爾将軍の年譜翻訳とか、ミシュランガイド庄内地方編とか、あとは、地元の通訳ボランティアの方々向けで本間家等庄内地方の商人の歴史を絡めた酒田の歴史講義作ったくらいで、これまでは、いわばちょっとアマチュア向けの歴史でしたが、今回は本格的に学術的な歴史検証の論文だったので、なかなか大変でした。
2010年12月13日月曜日
2010年12月2日木曜日
2010年11月17日水曜日
樋口正士著「石原莞爾将師見聞記」寄贈いただく
このたび石原莞爾平和思想研究会様より、新刊の標記書籍150冊ご寄贈いただきました。これは著者、樋口正士博士より「墓参に訪れた人々に少しでも知っていただきたい」とのご意向によるものと聞いております。この場を借りて樋口様、研究会様にあらためて心より御礼申し上げます。石原将軍墓所に置かせていただき、研究会様のご厚意で代金は将軍墓所の管理費に当てさせて頂きます。
研究会機関誌「永久平和」114号の紹介から、著者の樋口正士博士は福岡市に開業しておられる泌尿器科の院長である。副題に「達観した生涯の陰の壮絶闘病録」とあるように石原将軍の闘病の生々しい姿を記している。そしてこれが泌尿器科専門医の立場から著したものとしては本書が初めてとなる。
研究会機関誌「永久平和」114号の紹介から、著者の樋口正士博士は福岡市に開業しておられる泌尿器科の院長である。副題に「達観した生涯の陰の壮絶闘病録」とあるように石原将軍の闘病の生々しい姿を記している。そしてこれが泌尿器科専門医の立場から著したものとしては本書が初めてとなる。
2010年11月12日金曜日
2010年11月10日水曜日
石原莞爾ドキュメンタリー 取材お手伝い
2010年11月8日月曜日
「西山の歴史 概略」をHPに掲載
HP公開後、しばらくかかりましたが「西山の歴史 概略」ようやく掲載することができました。まだまだ十分なものではありませんが、資料でご協力いただいた皆様、当時の貴重なお話をいただいた方々に心より御礼申し上げます。石原将軍の墓地が当地にありますことで、西山のお話は関連として避けて通れないものと思い、下手な文才をかえりみずまとめた次第です。今後とも必要があれば修正、加筆いたしますのでご意見などいただければ幸せに思います。
2010年11月1日月曜日
9月10月分の墓所名簿及びノートの整理を行う
9月10月分の墓所名簿及びノートの整理を行う。名簿は延べ43名の参拝者が来訪されました。ホームページの方で更新いたします。ノートに記された方は、9月26日・10月17日の2件でした。ブログに掲載いたしました。今後も2カ月を目安に整理の予定です。
2010年10月21日木曜日
武田先生にお会いする
武田先生にお会いして「西山の歴史 概略」案文をお読みしてさし上げる。大変喜ばれ「すばらしい。これを目にできるのもご縁ですね」と言われた。このあと関係の深いご遺族などにご覧いただいた後にホームページ上にて公開する予定である。
2010年10月17日日曜日
2010年10月13日水曜日
2010年10月10日日曜日
ホームページ西山関係に公開前お披露目 追加写真
博男さん宅にてお披露目会のときの写真の別バージョン。武田先生、博男さんと一緒に。サイトの各ページの説明に入る前に、ちょっとの間だけですが、武田先生には、マウスに手を置いていただいて、カーソルを私の誘導で動かして、インターネットの操作を体感していただきました。石原莞爾さんの写真のところをダブルクリックしていただき、年譜を出していただきました。とても楽しそうでした。
また、これまであまりお話をする機会のなかった博男さん以外の西山の方々にもお会いし、お話することができ、とても楽しい会でした。
ホームページ西山関係に公開前お披露目
墓所HPを8月から準備してきたが、8.9割方出来てきたので公開前に武田先生と西山関係者に見ていただいた。その中で墓所経緯の説明はていねいに行う必要あるとのご意見をいただいた。武田先生には喜ばれ「これは残りますね」と言っていただいた。皆さんからは「大変でしたね」などねぎらいの言葉をいただいた。特に「将軍年譜」は英訳も併記しこれまでに英訳されたものより格段に充実したものとなったことは評価をいただいた。鈴木卓氏の労作である。積み残る「西山の歴史」ダイジェストはもう少し時間が必要で、完成したら公開前に西山など直接関係の人に原稿を見ていただくことにした。以降、再度点検し必要な手直しと顕彰会調整を行い公開することになった。
写真は、HPお披露目で歌川宅にお越しいただいた武田邦太郎先生。12月のお誕生日で98歳になられる。
写真は、HPお披露目で歌川宅にお越しいただいた武田邦太郎先生。12月のお誕生日で98歳になられる。
2010年10月6日水曜日
HP公開前詰め作業
墓所由来の写真その他配置変更、
スキャン済写真のアップロードとキャプション、
等の大きめの作業は本日で全て完了。後は、微調整のみ。
写真はアップしたのが、70枚前後。資料的にも貴重なものがありそうです。
2010年10月2日土曜日
HP作成第4回打合せ
鈴木卓氏と第4回打合せ行う。写真スキャン及び全体調整。全体の進捗がある程度できてきたので、予定されるビロリ氏の取材前に氏に見てもらいたいということで、今月中旬をめどに公開を早めることとなった。積み残しや要調整部分は公開後に順次整えていく。将軍がリヤカーで酒田軍事法廷に出発する時の写真を是非使いたく、プリント写真を関係者に当たっているが、現在のところ石原平和思想研究会HPにあるだけなので、借用の可否について問い合わせを行う。
2010年10月1日金曜日
年譜英訳完了
年譜英訳を完了。
基礎資料は、
石原 六郎、『石原莞爾・年譜』/石原莞爾生誕百年祭 実行委員会編、『永久平和への道 いま、なぜ石原莞爾か』所収、276-278頁、原書房、1988年
が中心です。
基礎資料は、
石原 六郎、『石原莞爾・年譜』/石原莞爾生誕百年祭 実行委員会編、『永久平和への道 いま、なぜ石原莞爾か』所収、276-278頁、原書房、1988年
が中心です。
2010年9月26日日曜日
山形県鶴岡市 ご家族(2名)
莞爾氏の遠縁に当たるものです。いつかいつかと思いつつやっと参拝できてうれしいです。心をこめて厚く大切に守られた墓所ですばらしい限りです。息子の車できましたが、夫は闘病中なのでよく伝えることにいたします。
2010年9月22日水曜日
卒論テーマの取材で学生来訪
岡山県より、卒業論文のテーマを石原莞爾将軍にしたので話を聞きたいと青年が訪れる。ひと時話の後、旧墓地、日輪講堂などを案内する。昨日は鶴岡市図書館と酒田市の光丘文庫で調査、新墓地墓参をしたとのこと。バイクを駆ってきたという真面目そうな好青年だった。
2010年9月16日木曜日
武田先生にお会いする
今日、久しぶりに武田邦太郎先生にお会いした際、インターネットホームページ準備中の旨お話ししました。娘さんの安代さんに聞くところでは、先生は今夏の酷暑で食が進まずかなりお痩せになりましたが、私のお話には大変お喜びになって「とてもいいことですね」と言っていただきました。
2010年9月14日火曜日
第3回打合せ
HP開設に向けて、鈴木卓氏、歌川で次の打合せ及び作業。①スキャナによる写真取り込みについて②各項目のスタイル及び内容等の調整③現在墓地に置いてある書籍のスキャナ取込みなど。
結果、墓所ノートなど整理がついて公開できるものから公開することとなった。
結果、墓所ノートなど整理がついて公開できるものから公開することとなった。
墓所ノート、芳名録整理したものを墓所に置く
墓所に置いてある感想ノート、芳名録を整理したものを墓所に置く。なおどちらも個人が特定できないように配慮した。併せて菅原会長が作成し墓所に掲示してある「石原将軍のお墓について」を最新のものに更新した。
2010年9月13日月曜日
2010年9月10日金曜日
2010年9月2日木曜日
2010年9月1日水曜日
関係者調整
現顕彰会会長、菅原良氏並びに前事務局長、菅原克夫氏宅をそれぞれ訪問し、芳名簿と感想ノートの整理したものをお渡しし、ホームページ開設に向けて準備している旨、お話をし了解いただく。
その際、菅原克夫氏の手元に新墓地工事の貴重な写真を見せていただいたので、後日これをコピーさせていただく旨了解いただく。
その際、菅原克夫氏の手元に新墓地工事の貴重な写真を見せていただいたので、後日これをコピーさせていただく旨了解いただく。
東京、石原思想研より依頼
東京の石原莞爾平和思想研究会の中村麗子氏より、お墓に掲示して下さいと、将軍の主張が掲載された毎日新聞東京版と大阪版(昭和20年8月28日付)を送ってきたので墓地に掲示した。原板が悪いのか字の判読も難しい状態で、図書館などに問い合わせたが今のところ解決していない。
2010年8月31日火曜日
2010年8月29日日曜日
2010年8月21日土曜日
第1回打合せ
墓所備付けの芳名録及び感想ノートを整理してみると、全国各地から相当数の人たちが毎年来所していること、感想ノートからは没後60年を過ぎてなお変わらぬ石原将軍の影響力がうかがい知れることなどから、これをインターネットで広く公開し、多くの人に知ってもらうことにしたい、というのが当初の趣旨である。
現にお墓(新墓地)を管理している私(歌川)と、石原将軍に以前から興味を持っていた鈴木卓氏の2名がとりあえずHP公開に向けてアウトラインを描くこととなった。
第1回目はHPのデザイン、掲載項目などの打合せ。
関係者との調整の要など。
現にお墓(新墓地)を管理している私(歌川)と、石原将軍に以前から興味を持っていた鈴木卓氏の2名がとりあえずHP公開に向けてアウトラインを描くこととなった。
第1回目はHPのデザイン、掲載項目などの打合せ。
関係者との調整の要など。
2010年8月15日日曜日
2010年8月12日木曜日
2010年8月11日水曜日
2010年8月7日土曜日
2010年8月5日木曜日
2010年8月4日水曜日
2010年7月30日金曜日
神奈川県厚木市 男性
これから太平洋戦争の勉強をしようと思いました。石原莞爾殿が遊佐に埋葬されている事は知っていましたが、こんな立派な墓なので驚きました。お顔を写真で拝見し、その優しさがしみ出ているようなお顔を見た時、今まで考えていた人とは別の人であるように思いました。 書籍購入。
2010年7月29日木曜日
2010年7月26日月曜日
横浜市 男性
石原莞爾は調べれば調べるほど、世間で言われている人とは違って立派な方ですね。数ヶ月前に宮沢賢治特集をホームページで行いましたが、近日中に石原莞爾特集を行いたいと思っています。 www.geocities.jp/densantarou
2010年7月17日土曜日
2010年6月4日金曜日
2010年6月1日火曜日
2010年5月5日水曜日
2010年5月4日火曜日
2010年4月24日土曜日
秋田県にかほ市 男性
私は大東亜戦争に対する評価を考えなければいけない時だと思います。あの戦争は悲惨な戦いですが、あの戦争によってインドネシア、マレー、ビルマ、インドシナを白人支配から解放することができました。そして戦後、アジア・アフリカなどの植民地が独立することができました。 以前、田母神俊雄氏が「日本はいい国です」と言いましたが、まさにその通りです。日本は、台湾、朝鮮に日本の税金でインフラ整備を行いました。満州国は傀儡国家ではありません。五族協和というスローガンを唱えたとおりです。日本は満州にも国税でインフラ整備を行いました。日本の支配は欧米支配に比べて寛大なものでした。石原莞爾氏が戦後、GHQの法廷で、戦争の原因はと問われ、「1854年に黒船が来たからだ」と言いました。最後になりますが、私達は近代史をもう少し勉強していかなければなりません。
2010年4月10日土曜日
山形県 男性5名
我々は少林寺拳法の拳士です。少林寺拳法の創始者、宗道臣先生が創始された金剛禅の思想の中枢をなすものが、青年期に影響を受けた石原莞爾将軍の東亜連盟思想と共通した日中友好、アジアの平和、そして世界平和に挺身することであり、長らく書物を通じて学習を重ねてきたが、本日縁あって将軍の墓参がかない感激の至りです。
2010年3月31日水曜日
2010年3月19日金曜日
2010年3月16日火曜日
東京都 男性
゛遊楽里゛で湯治中でしたが、偶然、徒歩圏内にご墓所のあることを知り、墓参いたしました。石原将軍の思想・行動は若僧に言わせていただければ、功罪半ば、いまだ歴史の判断、後世の評価を待つ部分ありますが、大陸中国と台湾の現状を考察すると、先見の明に富んだものと承知いたします。また、日本の地方都市の衰退を目の当たりにし、農をおろそかにし、安易な土建事業=公共事業に依存し、地場産業を生かした地域、国づくりを怠った日本の国家の在り方について、将軍の思想は現状の打開に向けての、一つのヒントを灯していただいているように思えます。 ありがとうございました。
2010年1月4日月曜日
茨城県竜ケ崎市 男性
1年ぶりにお墓に来ました。雪の中ですがきちんとお花がいけてあり手入れされているのをまず感じました。また小屋に入るとDVDや資料が前より増えていて大変嬉しく思いました。関係者の皆様いつもありがとうございます。今、私なりに石原先生の魅力をまとめると以下の通りです。
1.日本の主権を守るため、国力をつけるため日本と満州の貿易を盛んにし経済を高めようとした。
時代背景として、不況、ロシアの南下政策、アメリカのアジア侵出などがあります。
2.当時、中国を軽んじる指導者が多かったが、石原先生は中国と日本の対等な関係を築こうとした。 (中国、満州への思いやりを感じます)
3.アメリカに勝つため、あるいはアメリカとの戦争を避けるため、国力をつけ軍事を強化しアメリカに支配される日本にならないように努力された。
4.大局的な判断ができる方。日中戦争不拡大方針、二・二六事件での迷いのない判断など。
〈願い〉当時の時代背景を踏まえて、石原先生のとった行動を評価してほしいと願います。昭和の時代に石原先生のような偉人がいたことをもっとたくさんの人に理解してもらいたいです。 中国大陸へ日本が進出したのは明治時代からです。理由は時代が帝国主義で、日本は国を守るために富国強兵策をとったからです。日清、日露戦争でも日本は大陸の方に進出しています。 昭和の戦争や満州事変だけを取り上げて、大陸へ進出した当時の日本を非難するのは、少しバランスを欠いていると思うのですが。思うところを、生意気なことを書いてしまいました。間違ったところもあるかもしれません。何卒ご容赦下さい。
1.日本の主権を守るため、国力をつけるため日本と満州の貿易を盛んにし経済を高めようとした。
時代背景として、不況、ロシアの南下政策、アメリカのアジア侵出などがあります。
2.当時、中国を軽んじる指導者が多かったが、石原先生は中国と日本の対等な関係を築こうとした。 (中国、満州への思いやりを感じます)
3.アメリカに勝つため、あるいはアメリカとの戦争を避けるため、国力をつけ軍事を強化しアメリカに支配される日本にならないように努力された。
4.大局的な判断ができる方。日中戦争不拡大方針、二・二六事件での迷いのない判断など。
〈願い〉当時の時代背景を踏まえて、石原先生のとった行動を評価してほしいと願います。昭和の時代に石原先生のような偉人がいたことをもっとたくさんの人に理解してもらいたいです。 中国大陸へ日本が進出したのは明治時代からです。理由は時代が帝国主義で、日本は国を守るために富国強兵策をとったからです。日清、日露戦争でも日本は大陸の方に進出しています。 昭和の戦争や満州事変だけを取り上げて、大陸へ進出した当時の日本を非難するのは、少しバランスを欠いていると思うのですが。思うところを、生意気なことを書いてしまいました。間違ったところもあるかもしれません。何卒ご容赦下さい。
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