石原莞爾顕彰会事務局より

墓参された方々のご感想・ご意見を整理の上公開させていただいております。ノートを置いた平成13年からのものです。北海道から九州まで、小学生からご高齢の方まで老若男女、記名された方のうち約2割がこのノートに思いを綴られています。中には、遠方にも関わらず、二度以上訪れる方も相当数いらっしゃいます。石原将軍への熱い思い、永久平和への願い、この国のありようを考える、将軍の生き方に励まされた等々、記述の長短に関わらず、どれも真摯な思いが感じられるものばかりです。

【おことわり】 氏名・住所等から個人が特定できないように配慮させていただきました。できる限り原文のまま転記しましたが、ご寄付、書籍購入、その他、大意に影響ないところを割愛または簡略にした部分があります。また、内容・表現が過度な場合、語彙が読み取れない場合など、整理を控えさせていただいた箇所がありますこと、ご了承願います。当会の管理上のメモは省略。 ― 石原莞爾顕彰会事務局 ―

2011年10月3日月曜日

『石原将軍の思い出』第2信 石巻市 眞山文子

老いぼれてしまわない内にと、思い出しながら筆を進めました。文章にしてみると簡単ですが、その時、その時にみなぎる緊張感は身体の隅々に残っております。本当に東亜聯盟運動は緊張の連続、そしてそれを経験したことの充実感は何物にも換え難いものです。そのお陰で会い見る事の出来た数々の立派な方々、そのこともまた何物にも換え難いものでした。夫々の同志の方達の想いも同じだと思っております。

昭和8年5月、国際聯盟を脱退して日本に引き揚げて来られた将軍は、間もなく8月には第四連隊長として仙台に赴任して来られました。その仙台から電車で4・50分東寄りの石巻には、当時読売新聞特派員として高木清寿氏が街の有識者達と交遊を深めておられました。その読売の新聞配達をしていた眞山(元輔-夫)は友人、知人を誘ってその高木氏から数々の教えを受けておりました。アンゴラ兎飼育の門馬氏、理髪師の亀山氏、塗師の伊藤氏、魚市場で使う竹籠製造の阿部金氏等の諸氏達。

そのうちに、将軍が派遣された下士官達が度々訪れて「国の護り」等の講話を続けて下さいました。将軍の講演会は、石巻随一の大劇場を会場に市民挙げての大入り満員となり、後々までの語り草となりました。有識者の人々と共に勉強した「国防研究会」は年と共に発展、青年部の面々は途切れることなく続き、やがて「東亜聯盟」の礎となったのです。三山吾郎、安藤政雄の両氏は満蒙開拓の一員として渡満し、養成塾に入りました。

昭和12年日支事変が起り、日本は苦難の戦時体制の色を深めて行きました。そんな中、東亜聯盟の事務所が東京麻布に出来ました。機関誌が発行され、会員も増え、運動も厳しさの中に励みがつき、各地で催される講習会には何時も将軍のお姿がありました。私は名古屋、東京、福島と居を移す毎に人々との交遊が深まっていきました。講習会では色々な健康法がその目的に使われました。藪祐行氏の「藪式治療」石川氏の「霊動健康法」等は盛んでした。戦後になって間もなく「東亜聯盟」はマッカーサー指令により解散、間もなく「酵素普及会」として今迄以上に発展していきました。殊に農家の人々は物資の不足から肥料の貧窮があり、その発展に力を注ぎました。「柴田酵素」は数々の成果をあげ、素晴しい農作物を生み出していったのです。

  そうした運動の陰には、官憲の目を常に意識の隅に置かざるを得なかった人々でした。しかしながら考えてみますと、それはかえって運動の効果を上げたのではないかと思います。そうしたことがあったればこそ、運動や私的行動に常に自らを顧みる心が身についたのでは、と私は今になって思います。そして将軍は常に会員達に御心を配って下さいました。お忙しい御体を割いて講習会には殆んどお顔を出して下さいました。何という温かい御心だったのでしょう。    以上

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