石原莞爾顕彰会事務局より

墓参された方々のご感想・ご意見を整理の上公開させていただいております。ノートを置いた平成13年からのものです。北海道から九州まで、小学生からご高齢の方まで老若男女、記名された方のうち約2割がこのノートに思いを綴られています。中には、遠方にも関わらず、二度以上訪れる方も相当数いらっしゃいます。石原将軍への熱い思い、永久平和への願い、この国のありようを考える、将軍の生き方に励まされた等々、記述の長短に関わらず、どれも真摯な思いが感じられるものばかりです。

【おことわり】 氏名・住所等から個人が特定できないように配慮させていただきました。できる限り原文のまま転記しましたが、ご寄付、書籍購入、その他、大意に影響ないところを割愛または簡略にした部分があります。また、内容・表現が過度な場合、語彙が読み取れない場合など、整理を控えさせていただいた箇所がありますこと、ご了承願います。当会の管理上のメモは省略。 ― 石原莞爾顕彰会事務局 ―

2014年6月22日日曜日

「たけだへいわけんきゅうしょたより」全号セットについて

「たけだへいわけんきゅうしょだより」全号セットが完成しました。バックナンバー(不足分はコピー)で30部手作りで作成、一セット3千円で頒布いたします。「たけだへいわけんきゅうしょだより」の経緯、全号セットの作成意図は次の通りです。(各セットの最初のページに掲載したものです)



 「たけだへいわけんきゅうしょだより」は武田平和研究所(主宰:武田邦太郎)の機関誌であり、1983年(昭和58)5月の第1号から1999年(平成11)3月の172号まで発行された。ついで1986年(昭和61)「武田新農政研究所」が発足しているが、先生によれば「これは(永久平和を目指す為の)表裏一体のものである」と言っておられた。どちらも事務所は東京都内にあった。
 先生は大正元年12月20日広島県(現在の福山市 鞆)に生まれる。昭和10年に東京大学(文学部西洋史学科)を卒業され、昭和11年鐘淵紡績農林部に入社、満州の大牧場の建設経営に参加した。これは石原莞爾将軍が「農業方面における国宝的天才である」と評した池本喜三夫先生(先生の従兄に当る)との関係で昭和14年10月、京都師団長時代の石原将軍と初対面している。その後、石原将軍と信仰(日蓮教)の繋がりがあった伊地知則彦先生を介して武田先生も信仰の道に入ります。終戦後、日蓮信仰に基づく村作りを目指された石原将軍について昭和22年、山形県遊佐町の開拓地に入植、村作りで中心的な役割を担う一方、東亜連盟運動の講師として日本各地を回られた。
 先生は昭和36年に上京、池本喜三夫先生が主宰する新農政研究所(池田総理の諮問機関)の農政部長として活動することになり昭和52年に所長を務める。昭和58年に将軍の遺志を受け継ぐ形になる武田平和研究所を設立主宰、ついで昭和61年武田新農政研究所を設立した。平成4年、日本新党旗揚げに参加し副代表になる。参議院議員を6年勤める間、外務委員会委員、沖縄及び北方領土に関する委員会委員、国会等の移転に関する特別委員会委員長などを歴任した。
 先生が昭和36年、東京に出て活動するようになるのは、石原将軍が目指した日蓮信仰に基づく村作りの発展形として同志の総意があった。先生は石原莞爾将軍の遺志を繋ぐことを同志と共に一生の仕事として決意されたものと考えられる。事実、ご存命中はしばしばそのことを口にしておられたし、2つの研究所主宰のお仕事・議員活動と国会発言・提言等はいずれも石原将軍のお考えがその基礎にあることを伺わせます。
 2012年(平成24)11月15日、武田邦太郎先生は99歳でご逝去されました。遺された書籍・資料等を整理したところ「たけだへいわけんきゅうしょだより」のバックナンバーが相当数遺されていました。このお仕事が石原莞爾将軍の遺志を継ごうとしたものである事は明らかであり、ご家族と相談の上、全号をセットにしてお気持ちのある方に読んで頂けるようにしました。同誌の巻頭論文は、先生が主宰者として172号中(合併号その他を除くと153号中)133本を執筆していますが、その内容はいかに石原将軍の遺志を継ごうとしたものであるかが端的に表されているものと思われます。
                                    [2013.9月 記 文責:歌川博男]

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