石原莞爾顕彰会事務局より

墓参された方々のご感想・ご意見を整理の上公開させていただいております。ノートを置いた平成13年からのものです。北海道から九州まで、小学生からご高齢の方まで老若男女、記名された方のうち約2割がこのノートに思いを綴られています。中には、遠方にも関わらず、二度以上訪れる方も相当数いらっしゃいます。石原将軍への熱い思い、永久平和への願い、この国のありようを考える、将軍の生き方に励まされた等々、記述の長短に関わらず、どれも真摯な思いが感じられるものばかりです。

【おことわり】 氏名・住所等から個人が特定できないように配慮させていただきました。できる限り原文のまま転記しましたが、ご寄付、書籍購入、その他、大意に影響ないところを割愛または簡略にした部分があります。また、内容・表現が過度な場合、語彙が読み取れない場合など、整理を控えさせていただいた箇所がありますこと、ご了承願います。当会の管理上のメモは省略。 ― 石原莞爾顕彰会事務局 ―

2012年12月18日火曜日

武田邦太郎先生ご逝去

 武田邦太郎先生が先月11月15日22時03分、酒田市にある本間病院で亡くなられました。 死因は肺炎とありましたがほとんど老衰ともいえる満百歳での安らかな大往生でした。(正確には12月20日がお誕生日) 最後まで付き添った娘さんの安代さんと看護師さんによるとほとんど眠るように息を引き取られたとのことです。最後まで明晰な精神と信仰は保持されておりました。故人とご家族の「静かに送ってほしい」とのたっての希望でお知らせを控えさせて頂いておりましたこと、あしからずご了承くださいませ。

 戦後、石原莞爾将軍がこの地に村作りを決意されて入植されたのを機に、相前後して武田先生も入植されました。以後、石原将軍の信任が厚かった先生は開墾地の農場で指導的立場に立ちました。当初から村作りに参加した事実上最後の当事者でしたが、その意味では一つの時代が終わった感があります。なお、当地の国道7号線バイパスの建設に関わる石原将軍の新墓所建設ではやはり中心的にその実現に尽力されております。

 ここに武田邦太郎先生が歩んでこられた足跡を簡略ではありますがふり返り先生を偲ぶ縁としたいと思います。

                     ありし日の武田邦太郎先生 


 先生は大正元年12月20日広島県(現在の福山市 鞆)に生まれました。昭和10年に東京大学(文学部西洋史学科)を卒業され、昭和11年鐘淵紡績 農林部に入社、大陸に渡り満州の大牧場の建設経営に参加しました。これは石原将軍が「農業方面における国宝的天才である」と評した池本喜三夫先生(先生の従兄に当ります)との関係で昭和14年10月、京都師団長時代の石原将軍と初対面しています。伊地知則彦先生は石原将軍の勧めで昭和19年満州の王府(中国読み:ワンフー現在の長春市)牧場に武田先生を訪ね初対面していますが、武田先生たちが信仰に入るきっかけとなりました。

 伊地知則彦先生は鹿児島県出身で蒙古語を修めたのち、昭和12年、大陸に渡り蒙古人の小学校に奉職しました。仕事の中で民族協和について悩みを抱えている時、偶然にも石原将軍との運命的な出会いがあり日蓮信仰の道に入ります。こうした不思議なご縁があり旧満州では伊地知先生を中心にした信仰の集まりができます。敗戦を機にこれまで伊地知先生に指導を受けていた人たちが満州各地から長春(ちょうしゅん)の彼のもとに集まります。当時子供を含め男女22名が共同生活をしたそうです。胸を病んでいた伊地知先生は歩くとよろけるような状態でありましたが信仰の師として皆を指導しました。これは昭和20年の終戦から昭和21年7月の祖国へ向けて出発するまでのことです。引揚げは重病の伊地知を含む全員の過酷かつ危険極まりない旅であったと聞いております。伊地知先生とご家族には入江先生、武田先生、同志の駒瀬さんの3名が付き添い祖国へと向かいました。10月12日に博多着、伊地知先生はすぐに国立小倉病院に入院され10月18日、兄上が見守る中32年の生涯を閉じました。伊地知先生は亡くなる直前、祈りのうちに「今後は立派なわとう村(わとう=日蓮聖人のご遺文に出てくる「弟子たち」の意)を作れ。これは武田に一切を任せる。場所は決っている」と言い残しています。通信方法が全くない時、それがどこなのか分かりませんでしたが、同年10月12日に石原将軍は鶴岡の自宅を出て、桐谷誠さんが用意したここ西山開拓地に転居、「村つくり」の第一歩を印されていました。

 武田先生ご一家の入植は昭和22年5月初めで、西山での開墾、共同生活に入り、初代の西山開拓農業協同組合長を務めることになります。西山での生活は割愛させていただきますが、先生は東亜聯盟または協和会の講師として全国各地の講演活動で、留守にすることも多かったようです。また、昭和33年から36年までは酒田市の女子高等学校(当時-家政高校といった)に奉職しましたが、その短い間に同校の弁論部を全国一位に育てました。先生が教職を去るに当り校長先生はとても残念がり幾度も慰留されたと聞いております。

 先生は昭和36年に上京、池本喜三夫先生が主宰する新農政研究所の農政部長として活動することになり、昭和52年には所長を務めます。昭和58年には将軍の遺志を受け継ぐ形になる武田平和研究所を設立主宰しました。続いて昭和61年武田新農政研究所を設立しましたが、これは先生によれば平和研究所と表裏一体のものということです。この間、各内閣から嘱望され大臣顧問や種々の政策委員などを相次いで歴任しました。平成4年日本新党旗揚げに参加し副代表になります。参議院議員を6年勤める間、外務委員会委員、沖縄及び北方領土に関する委員会委員、国会等の移転に関する特別委員会委員長などを歴任しました。また現天皇陛下に農政の御進講を申上げたこと、またそのつながりでしょうか、平成6年、皇太子ご成婚の際の宮中饗宴の儀においてご祝辞を申上げたこともありました。石原将軍は皇室をとても大切なものとされていましたから、このような形で皇室に関われたことは武田先生にとって大切な経験であると思われます。平成10年、参議院議員を引退してからは当地の自宅に腰を落ち着けて文筆活動と祈りの日々を送ることが多くなったようです。先生の行動、発言等は議員活動を含めていずれも石原将軍のお考えがその基礎にあると聞いております。以上、武田先生が歩んでこられた概略を述べさせて頂きました。[文責 歌川]

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